こころの法話集018
お話018
自己を見詰める世界
福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾
探さなければならないもの
今日は、いかがお暮らしでございますか。きょうは、宗教って一体何だろうか。宗教の世界って、どんな世界なんだろうか、ということを考えてみたいと思います。
宗教とは、一口に申しますと、自己を見詰める世界ということが出来ると思うんです。宗教は自己を見詰めることに始まり、自己を見詰めることに終わる、ということが出来るのではないでしょうか。
今まで、自分のぐるりの社会とか、政治とか、家庭とか、自分の外側にばかり向けられている目が、自分自身という、内側に向けかえられる時、私たちは宗教の入り口に立ったということが出来るでしょう。
永平寺を開かれた道元禅師は、「仏道をならうというは、自己をならうなり」(正法眼蔵)と言っておられます。宗教を学び、仏教を学ぶということは、自己自身を学ぶことだと言われるのです。

昔、インドで青年たちが女性を深して森に入り、そこに座っている一人の人に、女性を見なかったか、と尋ねたそうです。その時、その人は「君たちは、女を探すことと、自分自身を探すことと、どっちが大事だと思うか」と問い返してきました。青年たちは驚いて「それはもちろん自分自身だとも」と答えます。
すると、その森に座った人は「よろしい、それでは私の話を聞きなさい」と言ったそうです。その人はお釈迦さまだったそうです。
みなさんはどうでしょう。ここで静かに、自分の胸の中をのぞいてみましょう。では、またお会いしましょう。