こころの法話集023
お話023
功徳思わず日常に光
福井市田原二丁日・法円寺住職 細江乗爾
何にもなりぬことをする世界
昔、中国の梁の武帝がダルマ大師に「私は多くの寺を建て、大勢の坊さんをつくったが、一体どんな功徳を得られようか」と尋ねたときに、ダルマ大師は、はつきりと「無功徳」と答えました。「功徳などあるものか」というわけです。功徳を期待するところに宗教はありません。功徳があろうとなかろうと、そうせずにはいられないのが宗教の世界です。永平寺を開かれた道元禅師が中国で修行中のことですが、一人の僧がやって来て「修行はなんのためか」と聞きます。それで道元禅師は「日本へ帰って人を導くためです」と答えました。するとまた、その人は「それは何のためか」と尋ねます。それで「人々に利益を与えるためだ」と答えました。するとその人は、さらに重ねて「突き詰めたところ一体何のためだ」と突っ込まれて道元禅師は答えに窮したと、出ております。「畢竟(ひっきょう)じて何の用ぞ」。この言葉は禅師の生涯のテーマとなったようです。「正法眼蔵随聞記」は、「得るところもなく、悟るところもなく、ただ端然と座禅して過ごすこと。それが即ち仏祖の道なのだ」という道元禅師の言葉で結ばれています。信仰を得ても、人は偉くなるわけではありません。心が清まるわけでもありません。相変わらず煩悩に苦しみ、悲しみに泣く凡夫であります。宗教は日常の世界を光り輝かせてくれるものなのです。