こころの法話集035
お話035
私を真実へ導くもの
小浜市遠敷・西光寺住職 吉田俊宣
仏さまってなに?③
「仏さま」というと、大抵の方は仏像を思い浮かべると思います。ここ小浜は「海のある奈良」ともいわれ、有名な古寺や素晴らしい仏像が数多くあり、国宝巡りのバスも出て、いつでもお参りすることができるようになりました。
あの仏像を礼拝(らいはい)することによって、仏教は綿々と受け継がれてきたのであり、私たちもまた、大切に後世へと伝えていかねばなりません。
しかし、ここで忘れてはならないことは、仏像に手を合わす時、あのお姿を通して、そこに流れている法に遭うことであります。仏法に遭い、仏法を開くことがなければ、そこにはもはや、世界宗教としての仏教の生命はありません。
どこへ行っても、よく聞かれる言葉があります。「あそこの薬師さんはありがたい」「どこそこの観音さんは霊験あらたかや」というような話です。木で彫って漆を塗り、箔(はく)を置いたり、彩色を施したあの仏像そのものの中に、何かしら摩詞(か)不思議な力を考えてしまうのですが、仏像は仏さまのはたらきの具現であります。
薬師如来のはたらきに変わりがあるはずがなく、観音菩薩は阿弥陀如来の脇士(わきじ)として慈悲の表現であり、大小の差があろうはずはありません。仏像そのものにマジカルな力を期待し、それに手を合わすことを偶像崇拝といいます。
仏さまとは智慧(ちえ)と慈悲のはたらきそのもの。智慧によって衆生(私)の本質を利己(自己中心)的存在と見抜き、その者を何とか利他・真実の世界に目覚めさせ、生かそうとはたらいて下さるのが慈悲。
この二つの用(はたらき)を仏さまと申すのであります。仏さまはただ礼拝の対象として向こうにあるのではなく、常に私にかかり詰めの真実の用そのものであります。
「仏さま」という名詞が聴聞によって動詞になった。