こころの法話集050
お話050
陥りたくない畜生道
福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾
足りたと思う心
テレビを見ておりますと、今年の上半期は、史上最高の輸出となったと出ておりました。自動車やビデオが外国へ輸出され、日本は金持ちになったそうです。自分の身の回りを眺めてみると、そんなに金持ちになったような気はいたしませんが、私たちは物の足りていることになれてしまったのでしょうか。
その上、報道によりますと、よその国の人たちは、この日本の富める姿に驚きはしましても、決して褒めてはいないようです。反省してみますと、物はふんだんにあるようになりましたが、心が不足しているという、この姿を、よその国は笑っているかもしれません。
物を見るのは、心です。また、物を扱うのも心でしょう。古い言葉に「心ここにあらざれば、見るとも見えず、聞くとも聞こえず」とございますが、意味深いことです。心の上に積まれたところの「もの」でありますれば、光り輝くでありましょうが、ただ欲望の上にのみ積まれたものであるならば、それはやがて崩れ去るのではないでしょうか。なぜならば、私たちの欲望にはきりがありません。
また「よくなればいいなあ」という理想なるものにも、きりがありません。さて、ここで欲望と理想とを比べてみましょう。よくこんな言葉を聞くことがあります。「欲望があってこそ、人間は向上するのだ。そうでなければ、人間は骨抜きになってしまう」と。
どうでしょう。心のない欲望は、物の足りた喜びや感謝を伴わないところのものではないでしょうか。仏教では、このような世界を、「畜生道」と申します。陥りたくない道です。