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こころの法話集093

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お話093

仏からのもらいもの

福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾

私の命

「いのちあってのものだね」という言葉がありますが、この命というのは、身体の命、寿命という意味に使われています。もう少し厳密に申しますと、入る息と、出る息が続いている間を、命があるということが出来ましょう。寿命が短いという事は、出たり入ったりの呼吸の続いている時間の長い、短い事をさしていると言うことが出来ましょう。
私たちが生きていくという事のためには、命が、その一番の「みなもと」であります。そして、それとともに考えられる事は、人生の数ある宝の中で「いのち」という宝が第一であるとされるという事でしょう。
命は私の方から求めて、与えられたものではありません。全くの「もらいもの」です。外の宝なら、一生のうちに、二回でも三回でも、もらうことがあるかもしれませんが、「いのち」という宝は、たった一回きりのかけがえのない貴い「もらいもの」です。
これが、私の手で造った「いのち」なら、自分の好きなようにしても良いかもしれませんが、「いただきもの」という事になりますと、あだやおろそかにも、また粗末な扱いも出来ないはずでしょう。

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このごろのように、何でも手に入り、また、どんな事でも出来るような科学の知識の進んだ今でも、人間の命はおろか、どんな小さいものの命でもつくることは出来ません。どこかの大学の実験室で、ダイコンをうまく作りました、などという話は聞いたことがありません。
命は一応、私のもののようですが、本来は私のものではないのかもしれません。だれからの「もらいもの」だろう、そのような心になってみると、何なく仏さまの姿が見えてくるのではないでしょうか。

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