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こころの法話集097

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お話097

煩悩は「転」ずるもの

福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾

たち切れないもの

古代ギリシャのある哲学者は、人間の姿を例えて、「人間のありのままの姿は、両足で大地を踏みしめて真っすぐに立ち上がり、両手を大空に向けて差し上げ、二つの眼は天の一角を見つめている」と言っております。
ここで両足が大地を離れていないという事は、人間も外の動物と同じように、本能におぼれる生活を続けないではいられない姿を言っているのでしょう。そして、真っすぐに立ち上がり、両手を天に差し上げ、目を空に向けているという事は、人間が理想を求めてやまない半面を持っていると説いているのでしょう。
人間というものは、静かに振り返ってみますと、一方では動物的な欲望を、また一方では理想を追い求めるという二つの姿を持っているようです。言い換えますと、煩悩におぼれようとする半面と、仏の悟りを求め続けようとする半面が一緒に、兼ね備わっているということが出来るのではないでしょうか。

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親鸞聖人という方は、そこのところを煩悩具足の凡夫と言われ、煩悩成就の凡夫と嘆かれているのも、こうした姿を表されたものといえます。私たちは、煩悩によって出来上がっている凡夫なのです。
ですから、煩悩をたち切って仏の悟りを開こうとする考えは、道理としては間違っていないのですけれども、不可能な道といえます。なぜなら、煩悩をたち切ろうとする、その私が煩悩そのものですから。煩悩はぬぐい去るものではなく、「転」ずるものでしょう。

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