こころの法話集100
お話100
「物心一如」かみしめ
福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾
物ごころ
私たちのご先祖さまは、本当に良い言葉を残して下さいました。例えば「子供らが無心に遊んでいる」とよく言われますが、われを忘れて遊びに夢中になっている姿を言い表したものでしょう。「無心」というのは、自分の体のあることも、心のあることも打ち忘れて、遊びに没頭している、ほほえましい姿のことでありましょう。
また、こんな言葉もあります。若い時のことを振り返ってみて「物心がついたころ」という言葉です。これは、幼い時には、何も分からなかったが、成長とともにいろいろなことが分かってきたという意味でありましよう。
それでは、果たして、どんなことが分かってきたと言うのでありましょうか。自分の周りにあるもの、すなわち、親あり、兄弟あり、友達あり、先生あり。あるいは、よその人もたくさんおられるということに気がつくようになることでしょう。
また、今までは自分一人の意思を曲げずに、だだをこねていましたが、それがいけないと言うことが、ぼつぼつ分かるようになってくるということ。このことは考えて見ますと、「物ごころ」物と心がはっきりしたということ、身体(もの)の中にある心が本来の働きを始めたということでしょう。

「もの」というのは、形のあるもの、自分の身体ももちろんそうですが、自然界の目に見えるもの、すべてを表す言葉でしょう。心は私たちの肉眼には見えないものです。しかし、仏教では「物心一如」と申します。「物の外に心はなく、心の外に物はない」「物ごころついたころ」をもっとよくかみしめたいものです。