こころの法話集107
お話107
偽の自分に気づく
坂井町御油田・演仙寺前住職 多田淳政
握ったものを放そう
私たちの人生において、何よりも大切なことは、法を聞くということでありましょう。それは、この苦悩の人生を送るのに、大きな力となり、ともしびとなって下さるからです。
しかし、聞法ということは、聞くことによって、何かを覚えてゆく、何かを握ってゆくことではないと思います。そうでなくて、今まで、このおれがおれがと握っていたものを離してゆくことではないでしょうか。そして全部離し切ったとき、あとに残るものは何でしょうか。それは全く無力の私、煩悩具足の私でしかないでしょう。しかし、そのことが実はとても素晴らしいことなのです。
ある人が因幡の源左さんに向かって、
「このおれや偽同行で、寺に参れば念仏喜ばせてもらうけんど、家に帰ると忘れてしまうで、全くおれや偽同行だわい」と言ったら、源左さんが
「偽になったらもうええだ、なかなか偽になれんでのう」と言ったということです。なかなか自分の偽に気づくものではありません。
しかし、偽の自分に気づくことが出来たのは、実は自分の力ではなくて、仏さまの広大な知恵と慈悲のお光に照らされたからです。そこに恥ずかしい自分のすがたに頭が下がるとともに、大きなご恩を仰ぐ喜びの人生が開かれてくるでありましょう。
法を聞くということは、そういう喜びをいただくことであります。