こころの法話集131
お話131
愛憎超え生命に共感
福井市松本四丁目・千福寺住職 高務哲量
我亦在彼摂取中(下)
我も亦(また)、彼の摂取の中に在りとは何と豊かで温かい響きを持つ言葉でありましょう。そこには私だけではない、あなたもまた、そして生きとし生けるものが、阿弥陀如来のお慈悲の光明に摂取されて抱かれてあるのですねという、生きるものすべてに対する命そのものの共感があふれているからでしょう。
私たちは他者の思想や思いに自分が同調することを共感すると言います。しかし、それはあくまで物の考え方、思いに対する共感であって、ともに一ぺんきりのかけがえのない命を生きているという生命の共感ではあり得ません。
私たちは嫌いな存在をけむたがり嫌悪し、いなくなって欲しいと願い、自分に都合のよいものにはどこまでも執着します。
しかし、いずれも思うようにゆくことはなく、前者を怨憎会苦(おんぞうえく)=嫌いなものとも顔を会わせて生きねばならない苦しみ=、後者を愛別離苦(あいべつりく)“愛するものとも別れねばならない苦しみ”といい、この愛憎に振り回されて生きているのが私たちの日常でありましょう。

そして、そこには生命を生命として尊ぶ心はなく、あるのはどこまでも自分の都合だけであります。こうした愛憎を超えて、人が人として生命を尊び合う道がここにありと立ちあがり、生きとし生けるもの(十方衆生)の親たらんと名乗られたお方を阿弥陀如来と呼ばして頂くのです。