こころの法話集141
お話141
恥ずかしい自性に光
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
悪性をみつめる
あなたは他人の悪口をいったことはありませんか。人のうわさ話とは大抵は悪口のようです。他人の悪口は酒のサカナになるといいます。赤ちょうちんの酒場などでよくみうけられる風景です。
人にうわさされるとクシャミがでるといいます。カゼでクシャミしたのでもだれか自分の悪口をいっていると気にします。それが本当のことでも悪口をいわれると腹がたつものです。そこで黙っていても悪口をいわれるのだから、自分も他人の悪口をいわなきゃ損だと、あることないこと言いたてると胸がスーッとするほど面白いという人もいます。
しかしうその証言で他人が死罪となるかもしれないことを思うとおそろしいことです。他人の悪いことはよく分かりますが、自分が悪いことはなかなか分からないものです。他人に欠点を指摘されると、自分が悪いことに気づくより先に腹がたつという始末です。やみのなかにいてはやはり手さぐりの毎日であります。

しかし仏法の光に照らされてやみのなかの自分が明るみにだされます。仏法が分かるということは自分が分かるということで、何とお恥ずかしい自性であることか。分かってみてもなお、のたうつ私の悪性を思えば、ただ南無阿弥陀仏のほかありません。