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こころの法話集142

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お話142

生かされている自分

清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲

すべてお見通し

還暦も過ぎて、このごろは長生きすることもよいものだなァと思っています。たかだか六十年くらいで、何が長生きかと笑われそうな長寿国日本になりましたが、私など戦中派にはまさに人生は苦なりの感じでありました。生きることに力の限りを尽くしました。
戦争経験者は皆そうですが、空襲や震災や空腹や貧乏、病気その他の災害を越えてきましたが、人は生きるためにご飯をいただきます。いのちの根本ですから、いねといいます。世の中の根本でよねといいます。それならご飯をたべていれば百歳でも二百歳でも生きられそうですが、そこまではなかなか生きられません。
私は若いときのようにご飯をお茶わんに何杯もいただくことができなくなりました。食が細くなります。昔の人は食べられなくなると、菩薩さまに見放されたといいます。米のなかに菩薩さまがおいでだと考えていたからですが、死の前にはご飯を食べる力もなくなります。

お話142

「何もたべなくなったので危ない」といって、親族が集まります。自分一人の力で生きていることではなく、生かされている私を感じます。自分の業に苦しみながらの人生ではありますけれど-そして人さまに堪忍してもらうばかりであいすみませんが、すべてを阿弥陀さまが知っていて下さいます。

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