こころの法話集158
お話158
他人ごとにながめる
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
ありがたくないのはなぜか
お説教におまいりしても法事のお経を聴いても「ちっともありがたくない」という人がいます。聴きたくないのに聴いているのが閉口だし、ありがたいといって、お念仏している人がいるが、どうしてありがたいのか分からないという意味のことのようです。
この場合、二つの意味があります。お説教を聴聞しているお方が「ありがたい、ナマンダブ」とつぶやかれるのは古来「ウケ念仏」といわれるものです。善知識のお言葉に、まことに地獄行き一定の私が成仏することは有ること難いこと-あり得ないことである。念仏念仏、これ真宗-であるといううなずきの発言なのです。

なるほど、なるほどと相づちを打つことです。お説教の聞き上手の人でこんな参詣(けい)者が多いとき、法悦(ほうえつ)のムードが盛り上がります。次にお経がありがたくないということですが、この場合尊い、感謝する気持ちが出てこないということのようです。
法事を自分のことでなく、他人ごとにながめているためで、お釈迦さまのお説教であるお経が自分の往生のための仏法であり、仏徳賛嘆の読経であるということが理解されていないからで、蓮如上人は「聴聞に心をいわれば信を得る」と申しておられます。