こころの法話集211
お話211
弥陀の浄土で同体に
春江町千歩寺・順教寺前住職 中臣徳恵
み仏の光に包まれて
親鸞聖人の信仰は、現実の生活のまま、正定聚(しょうじょうじゅ)の位、やがて仏になると定まった利益(りやく)を得るにあります。仏の本願が南無阿弥陀仏の名号となって、私に回向される時、このからだもこの心もみ仏のご光明の中に包まれます。
それはちょうど、磁石の磁力が鉄の中にしみ込んでしまうように、凡夫のあさましい心身に入り込みます。これを仏凡一体(ぶつぼんいったい)と申します。同体ではありません。この世で仏と同じになるはずはない。等しいのであります。等しいから、近いのです。いつ、この身心が亡くなっても、そのとき必ず弥陀の浄土で仏と同体となるのであります。
だから、この現実生活の喜び、利益を詳しく申せば、①目に見えぬ善い神々から護(まも)られる、②この上もなく尊い功徳が身にそなわる、③罪悪を転じて念仏の善と一味になる、④諸仏に護られる、⑤諸仏にほめたたえられる、⑥阿弥陀如来の光明に包まれて、常に護られる、⑦心が真のよろこびにみたされる、⑧如来の恩を知られる報謝の生活をする、⑨如来の大悲を人に伝えることができる。
この九つのうち①④⑤⑥は光明の縁であり、②③⑦⑧⑨は名号の因であります。この光明と名号の因縁によって、阿弥陀如来の無限の知恵と慈悲と方便の力が、この私の身心にみたされて、よろこびと漸悦(ざんぎ)と勇気ある生活に展開するのであります。
「生きてよし死する亦(また)よし南無阿弥陀ほとけの命の中に包まる」