こころの法話集225
お話225
忘れられた地獄極楽
芦原町轟木・浄光寺住職 高木昭州
先日、ある人から「昔はよく、地獄極楽の説法を聴いたものですが、このごろは仏教も現代的なって、そんなあるか、ないかわからないような地獄極楽の説法は影をひそめ、人間がよりよく生きる方法として説かれるようになったので仏教に非常に魅(ひ)かれます」と、聞かされて、私は唖(あ)然としました。
現今の混迷している世相を見る時、ますます地獄極楽の説法こそ大切な時だと思っているからです。それは、だれでも、自分の顔は自分のものでありながら、自分では見る事ができません。鏡に映してこそはじめて、自分の本当の顔を知ることができるのです。人間の生活の実態は、地獄極楽の世界にうつしてみてこそ、はじめて、「自分の愚かさ」「よりよく生きる人間への道」も見えてくるのではないでしょうか。「子が親に挑みかかり」「親は子を殺し」「強き者は弱き者をたたきのめす」現今悲惨無情な様相は一体どこから出てくるのでしょうか。

「より豊かな」「より平和な」よりよい人間生活を求めていながら、結果は手のつけられないような社会問題として浮上しているのです。
こんな時こそ、人間に生まれ出たことの尊さ人間として育てられる事の大切さを説かれた地獄極楽の説法こそ忘れてならないと思う事であります。