こころの法話集258
お話258
仏の支えあってこそ
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
昨年は若い人の自殺が続きました。生きていく力がなくなたからでしょう。人という文字は、互いに支えあっているものです。愛する人がいなくなったとか、何をめあてに生きるのか分からなくなったとか。受験に失敗したとか。理由はいろいろあげられますが、それはきっかけであって、根本は支えを失ったからではないでしょうか。
それにしても生も死も何と軽く考えられていることか。人命軽視の原因はいろいろあげられています。テレビ画面で殺人が何と安易に行なわれていることか。核家族となっていることや、長寿の時代になって、愛する家族の人の現実の死の重みをみつめることがなくなりました。
生活のために働く会社での親の姿を知らず、お金は銀行振込みで自然発生的にもたらされます。学業に忙しくして花を育てたり、動物を飼ったり、生命を育てるうれしさや死(枯れる)の悲しみを、現実に知る機械が少なくなりました。
幼いとき家の老人と一緒に仏壇のマンマンちゃん、ののさまにお参りすることもなくなりました。仏さまが私のことを聞いてみて知っていてくださると教えられていません。み人気のお慈悲を聞くめあてもなければ、お呼び声に支えられることも知らないでは、生きることもできないではありませんか。「阿弥陀仏ここを去ること遠からず名呼ぶ人の袖やたもとに」