こころの法話集269
お話269
み仏は常に私とともに
小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸
み仏の教えにあうということは、私の方からあいに行くのではありません。また特別な営みの中にあるのでもありません。いまここに生きている、いのちと人生を深くみつめさせていただくところにあるのです。
私は御門徒の方の家の新築記念に「大悲無倦常照我」という正信偈の御文を書いて記念品としてさしあげています。み仏の大悲心は一日一刻もやむことなく私のそばを離れずに、幸せであれよ、どのような苦しい時でも悲しい時でも、あなた一人が苦しみ悲しんでいるのではありません。この苦しみ悲しみをだれ一人知ってくれなくても必ずこの弥陀はともに苦しみ悲しんでいるのですよ、と呼び続けて下さるのです。
この大悲の中には、生まれてより今日までの過去と死という未来との接点に浮草のように暮らしている私に対して、今を見よ今日を喜べといっていられるのです。そこに今まで見えなかった世界が見えてくるのです。聞こえなかった声が聞こえてくるのです。
私の尊敬する九條武子夫人は「見ずや君明日は散りなん花だにも力の限りひとときを咲く」と歌われています。見えませんか、本気になって見ようではありませんか、自己を見、私の周囲を見、世の中を見るとき必ず何かが見えてくるのです。あす散ってゆくかもしれない花でさえ、今の一時を力の限り全生命をつくして咲いているのです。武子夫人は一輪の花のいのちに寄せて自分自身の生命のありようを示されているのではないでしょうか。
私の人生において今日という日は二度と同じ形では現れてきません。このことこそ人生無常というのでしょう。それがために如来の大悲は一刻も私を離してはいられないのです。阿弥陀仏の大悲はうむことなく常に私に今を精進せよ、努力せよと呼びかけながら、常に私とともにいられるのです。