こころの法話集268
お話268
自己の見直しが大切
小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸
仏の救いについて、私たちが忘れやすい点について考えてみます。善導大師の礼讃偈(げ)には「衆生の善根薄少」とあって、自分自身にもほんの少しなれども善根を認め、また時間の問題には触れていません。それが同じ善導大師の散善義になりますと「自身な現に」「砿劫(こうごう)よりこの方」と現在と過去の時間を表現されています。しかもそれが「出離の縁あることなし」と、苦悩から抜け出すことができないと、過去、現在、未来の三世について現されているのです。
このことを先哲の方は、完全に未来の表現であると理解し、今の私の罪悪は遠い昔の過去から人間としての縁の尽きるまで続くと解釈されているのです。
いま私とは、と自己反省をするとき、その人間として生きる道として絶対悪の思想が感じられるのです。このように進めていきますと、やはり自己反省というか自己を見なおすという大切な問題が現れてくるのです。
私たちはややもすれば「私は神仏に誓ってうそをいわない」ということがありますが、これこそ自己反省も、また過去や未来を省みない恐ろしさ人間、動物的性質といわねばなりません。人間なればこそ自己を知り反省し、自己の未来を考えて生活すべきであります。
真宗の立場からすれば、自分のこの悪は昔はなかったとか、やがてはなくなると考えているのは自己そのものを、そして自分の悪を甘くみているものであって、現実の悪性の深さから逃げているのです。この悪性は人間として生を受けて以来のものであり、永劫(えいごう)に私から離れないのです。
このことを「自身な現に罪悪深重の凡夫砿劫よりこの方常に没し常に流転して出離の縁あることなしと深く信ずる」といわれています。この自覚こそ宗教的生活の思想であり、このことに気がつくとき仏の救済の喜びがあるのではありませんか。

真宗の立場からすれば、自分のこの悪は昔はなかったとか、やがてはなくなると考えているのは自己そのものを、そして自分の悪を甘くみているものであって、現実の悪性の深さから逃げているのです。この悪性は人間として生を受けて以来のものであり、永劫(えいごう)に私から離れないのです。
このことを「自身な現に罪悪深重の凡夫砿劫よりこの方常に没し常に流転して出離の縁あることなしと深く信ずる」といわれています。この自覚こそ宗教的生活の思想であり、このことに気がつくとき仏の救済の喜びがあるのではありませんか。