こころの法話集267
お話267
如来さまは本師本仏
小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸
仏教の救いについて続けます。私たちは常に阿弥陀如来によって救われると申しますが、その阿弥陀如来は救いの立場から言えば、あくまでも「如より来生した仏であって、法性法身、においもなく、すがたもない仏ではありません。形をあらわし、み名を示された方便法身の弥陀でなくてはならないのです。この方便法身の如来こそ私を救うために法蔵菩薩として現れ、永劫の修行をして本願力の名号を成就されたのです。
このように人格的な如来さまであるから「この仏」であり私の親様といえるのです。このことを浄土真宗の立場からいえば唯一の如来さまでありますが、ややもすれば弥陀一仏として排他性が現れ、一仏のみに固執するという性格もあらわれてくるのです。
このことは大変難しいことですが、如来に理的なものが強いときには、その理にかなえさえすればどの仏でもよいとなり、人格性が強くなると「この仏」ということが強くなり、弥陀一仏の思想が進み、「この仏のみ」ということになるのです。
ここに浄土真宗の阿弥陀如来を本師本仏と仰ぐ思想が生まれてくるのです。この本師本仏と仰ぐとき、私を救うための如来として法蔵菩薩の因位を経て四十八願を成就し、方便法身の弥陀如来となられるのです。私たちが常に拝読する御文章の信心獲得章に「信心獲得すというは第十八の願の心得るなり、この願を心得るというは南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と人格性を現されているのです。
また、親鸞聖人は歎異抄結序に「聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」とあります。この五劫思惟の願とは法蔵菩薩因位の四十八願であり、救わんと誓われたみ仏に対する感激があるのです。この救者こそ法蔵菩薩の本願を成就して私一人を救うための方便法身の弥陀如来になられた仏でなけねばなりません。