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こころの法話集266

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お話266

信ずるより子細なき

小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸

救済教としての浄土真宗を語るとき、第一に衆生と仏とは本来異質であるということです。聖道自力の教えでは衆生と仏とは真如縁起といって、本来同質であるといわれています。救済教の原理として両者が共に有力者という同質であるならば救いは不必要であり、無力者という同質であるならば救いも不可能であります。
この問題は仏法を聴聞するものにとって十分注意して学ばねばなりません。例えいかなることがあっても、救済という原理からは、このことを忘れてはならないのです。
自力自証の教えと他力救済の教えでは根本的に人間観の考え方が異なってきます。自力教では、その教義が成立するためには、あらゆる人間は自力修行によって成仏できるという立場に立たなければ成立いたしません。また救済教では半自力半他力の教えでは、その点はっきりしていないが、浄土真宗のように絶対他力、浄土往生の教えにおいては人間というものは自力では成仏できないという立場に立つのです。
親鸞聖人は歎異抄の二条の中に「その故は自余の行をはげみて、仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候らわばこそ、すかされたてまつりてという後悔もそうらわめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞし、弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからずうんぬん」と完全に救済者たる弥陀如来と救われる自己とを明らかにし、しかも信ずるという中に法や経よりも第一に人格を信ずることを強く示されています。

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やはり第二条に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをかうむりて信ずるより外に別の子細なきなり」と示されています。この救済者と被救済者との間の関係を思うとき、それ以外の何物もないことを熱く私たちに教え感じさせられます。

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