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こころの法話集265

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お話265

感謝は人格認識から

小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸

仏教の救いについて考えてみますとき、浄土教関係の教えは、仏により救われる教えであります。救いを中心にして説くことが初期仏教の思想から現代説かれている浄土真宗的救済教に至るまでには大きな問題がありますが、日本伝来の仏教においては、大きな勢力となっています。
現代仏教では、大別して聖道自力の自証教と浄土門的救済教との二つに分類することができると思います。このように考えますと、如来の性格を明らかにすることが、宗教を学ぶものとして大切になってくるのです。
今回は仏教の救いの中、特に救済教としての浄土教について、救いとは何かを考え、またその方法、力としての念仏とは何かを原点にかえって考えてみたいと思います。
救いには、その根本原理として救済者としての如来と被救済者としての私との関係がなけねば成立しないということです。このことは自証教とは大きな性格の違いがあるのです。
宗教の救いも俗世間の救いも、すべてこの救済(如来)と被救者(私)との両者が必要になってくるのです。この原理を離れて救いは成立しないのです。私たちが常に法話を聴き、仏教書を見るとき、このことを忘れてはならないと思います。

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次に大切なことは、救う如来と救われる私との間に必要なものは何かということです。それは共に人格をもっているということです。どれだけ多くの利益をうけ、また育てられたとしても、その相手が人格のない無生物だと考えたときには、救われたという感激があるでしょうか。
例えば、病気になりお医者さんに診ていただき薬を飲むことによって、病気が良くなったとき、私たちは薬に対して、ありがとう、おかげさまと感じるでしょうか。まず第一に医師先生に対して感謝の心が出てくるのではありませんか。これが人格的存在というのでしょう。

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