こころの法話集275
お話275
今日も一日、心に花を
春江町千歩寺・順教寺前住職 中臣徳恵
待望の花咲くころとなりました。ツバキその他もろもろの花が咲きます。桜は次々と前線を追って春先に開きます。長い積雪にたえ根を大地に張って、じっと生命の力を蓄えての果てに開きます。
そしてその美しさは、自ら精いっぱい「いのち」をのばしているその姿が、われわれに美しく、和やかな心を与えてくれます。その美しさも長くはない、ことに桜は、“明日ありと思う心のあださくら”夜半のあらしに散ります。これら三つのことを教えてくれているように思われます。
第一はわが「生命の尊さ」は、過去の多くの力によって育てられたこと。第二に精いっぱいの「心をこめてのびゆく」成長する姿は他の人々に美しさ、そして感化を与える。第三にあすをもわからない「いのち」「いつこの世を去るかわからないこと」。この三点を花から教えられるのではないでしょうか。
私は二十二歳、大正十四年、龍谷大学在学中に、「花まつり」の行事を始めました。若い人たちとともに白象、花御堂を作り、釈尊の誕生仏をのせて、付近の小学校から「昔も昔三千年花咲きにおう春八日」と行進しました。
寺の本堂で甘茶をかけ、「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えきくが、お互いに「天にも地にもわれひとり」と自分を尊んで成長するのだと子供さんに申し聞かせてきました。子供たちだけでなく青年、壮年、老年に至るまで、いくつもの組織してある会合で花まつりの意味をのべ、家庭化、社会化に運動を続けてきました。近年は交通事故の多い時代なので、良朋会という壮年たちが白象に花御堂をのせて、移動巡回を実施しています。
釈尊が、「自灯明、法灯明」というて、「法という永遠の真実の教えに照らされた自己をたよりにせよ」と教えられました。私も八十三歳の生命を恵まれて、今日一日「心に花」をと、花まつりのころ若返ることであります。