こころの法話集281
お話281
暮らしの中に念仏を
春江町千歩寺・順教寺前住職 中臣徳恵
親鸞聖人の御和讃の中に、高田の御本山に伝わっている御真筆のを拝見すると「南旡阿弥陀仏ヲトナフレバ衆善海水(しゅぜんかいしい)ノゴトクナリカノ清浄ノ善ミ(身)ニエタリヒトシク衆生ニ廻向(えこう)セム」とあります。「海水」の左のところに「ミダ(弥陀)のトク(徳)ノキクナキコトヲ、ウミ(海)ノミヅ(水)ニタトフルナリ」。また「カノ清浄ノ善ミニエタリ」のところでは「ナモアミダブヲトナフレバ(称える)、ミヤウガウ(名号)ニ、オサマレルクドク(功徳)ゼンゴン(善根)ヲミナタマワル(賜わる)トシルベシ」とあります。また「五濁悪世ノ衆生ノ選澤本願信ズレバ、不可称不可説不可思議ノ功徳ハ行者ノミニミテリ」ともあります。
「ミ」とは身体のことであります。身体は衣食住の私どもの生活をあらわされています。
この毎日の煩悩にあくことない生活、よく(貪慾)やまず、いかり(瞋恚)、ぐち(愚痴)の次々とやまない日暮らしの中へ、お念仏の功徳のかぎりない知恵と慈悲が入りこんでくださると「不可称不可説不可思議」といって、何とも考えも説明もできないような功徳が与えられるのであると、聖人はおよろこびになりました。
現代のような科学技術の進み、何もかも自由な飽食時代でも、日々の心の乱れはいよいよ甚だしい、それなればこそ私どもはこのお念仏のお心をいただいて、乱れ心を転じて、念仏によって心の安定による勇気を出して、生活を正しく、そして感謝とざんげの日暮らしを続けたいものであります。