こころの法話集408
法話408
念仏を中す人生を(相手のこと思う心持て)
小浜市遠敷・西光寺住職 吉田俊逸
自然の法則に反する私
私たちの生活はこの世に生を受けてから娑婆(しやば)の縁つきるまで欲から離れられず、欲望は物にも心にもつきまとっているのです。この欲からは抜けられません。人間として生命を保つための必要条件です。でも今一度考えてみようではありませんか。
現代のように科学文明の発達した時に生まれてきた私、何か忘れているものはないでしょうか。物や名声が先になって私自身の本質を忘れているのです。そのため他の人々のことを考えない冷たい自己中心的な人間になってきているのです。
今まで悲しい苦しい生活をしていた者が何かを縁にして、幸福な生活をするようになると感謝もご恩も忘れて、いつの間にかうぬぼれと我の強い心になってしまうのです。
親鸞聖人は和讃の中に「七宝樹林くににみつ、光耀(こうよう)たがいにかがやけり、華菓(けか)枝葉またおなじ、本願功徳聚(じゅう)を帰命せよ」とお諭しになっていられます。和讃の中の「くににみつ」とは私は私の心であり家庭であると思います。七宝樹林とは単なる宝物ではありません。喜びの心であり、もったいないことを知る心です。
わが心に私の家庭にこの心が輝いていてこそ、お互いに心から合掌の出来る楽しい生活ではありませんか。どのような環境にあっても、相手のことを思いながら暮らすことの出来るところに念仏を申す人生があるのです。