こころの法話集421
法話421
消費と歓楽は無常(「後世の一大事」こそ大切)
美山町獺ケ口・正玄寺住職 岩見紀明
人の世のはかなさ(二)一茶の俳句に学ぶ
「花ちるや末代無知の凡夫衆」
小林一茶の旬です。知的水準の平均化した今日の大衆社会で、末代無知だなんて言おうものなら、袋だたきにでもあいそうでありますが、末代とは、仏法心が薄れて本気で仏道修行を行う人のおらなくなった世代のことをいっているのです。また無知とは人生の「一大事」を知らぬ人間のことを言っているのです。
したがって一茶のこの俳句は、蓮如上人の御文章に示された「末代無知の男女」とか「たとえ八萬の法蔵を知るというも後世を知らざる人を愚者とす」と述べられた言葉を意識しなくては詠めない旬でしょう。
いまここで末代無知の凡夫衆というとき、それは「後世を知らざる人」ということでしょう。後世とは、短くはあすから、長く言いますと未来永劫(ごう)のということです。
したがいまして「後世を知らざる人」とは、あすからの一大事を知らぬ人ということでしょうから、今日の消費の美徳に酔い歓楽をむさぼっている人々に「花ちるや」という呼びかけで、一茶は存在の無常性を警告していると思われます。
仏教に末法思想というのがあります。釈尊入寂後、一定の期間は正法が保たれますが、像法(ぞうぼう)になって仏教は衰え末法には釈尊の教えだけ残って人心が乱れ濁世(じょくせ)になるという思想であります。
末法という絶望のいま、なにが一番大事であるか、それは「後世の一大事」よりほかにありますまいにと警告をしているのであります。