こころの法話集104
お話104
願力で心身の安心を
坂井町御油田・演仙寺住職 多田文樹
幸福を妨げるもの
きょうは、煩悩の代表の中から、最後の「見」という煩悩について考えてみましょう。
見とは見解のことで、正しい見解も誤った見解も、両方あるわけですが、煩悩の一つにかぞえるときは誤った見解のことです。
何をもって、誤っていると判断するかといえば、仏教は縁起の法、言い換えれば、因果の道理に合っていれば、正しい見解。合っていなければ、邪見と見るわけです。
例えば、人間は死んだら何も残らない。生きている間がすべてだから、生きている間にせいぜい楽しんだ方が得だ、という考え方もありますが、あまり極端になると、無の邪見と言わねばなりません。
善きにつけ、悪しきにつけ、自分のなした業が、後の世に影響を及ぼすことを考えねばなりません。
また逆に、自分のなした悪業を歎くのはよいが、そこにいつまでもとどまって、立ち直ることができず、苦しみを重ねて、心身を安んずることができない。これは、有の邪見といわれます。
確かに自業自得、悪因苦果は動かしがたい法則ですが、それにも勝る阿弥陀仏の願力によって、自業自得の鎖が断ち切られてゆく世界があることを知らねばなりません。
歎異抄に、「罪悪も業報を感ずることあたわず」と、高らかに言われている通りであります。