こころの法話集138
お話138
仏に逆らう日々反省
福井市上萌生田町・安楽寺住職 佐々木俊雄
悲嘆
教えをいただくということは、一人称の自分がつかまれていなければ、あり得ないといいます。一般論として聞いても、そては決して自分の血や肉となり力に変わることはありません。
親鸞聖人が、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずるに、ひとへに親鸞一人が為なりけり」と申され、また、「地獄は一定すみかぞかし」と申されている(ともに歎異抄)のも、ともに聖人ご自身の上にいただかれているのであります。これらのおことばの奥には、聖人の、仏の照覧のもとの厳しいご反省の気持ちがうかがわれるのであります。
仏教は、因果の道理を説くのですが、それは種子を蒔(ま)かなければ、芽は生えてこない、生えてくるであろう芽が恐れていれば、種子を蒔いてはいけない、と教えます。聖人が、「地獄は一定」と申しておられますが、それはどこかに地獄があって(また極楽があって)、悪因をつくればそこへ堕(お)ちるそうな(善因によって極楽へ生まれるそうな)と述べておられるのではありません。
日々の自分の生活を反省すると、そこには成仏の因はかけらもなく、一々が仏の心に逆らい、仏を背にしているわが身、さすれば、自分は地獄への道をまっしぐらに歩んでいる、とのご反省のおことばであります。しかも、そのような自分に気づいたことがすなわち、仏のなせるわざとしていただかれるのであります。
聖人の日常は、その一々が、反省と感謝が同居するものであったのであります。聖人の「世の中、安穏なれ、仏法ひろまれ」のねがいは、この生き方こそ真実のものとの確信より出ているのであります。