こころの法話集256
お話256
2千5百年のウソか
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
「御院さんはテンポ(ウソ)ついていてもわからんの。地獄や極楽から帰ってきたものがだれもえん(いない)のやさかいのう」とお同行が不満そうな発言。若い人に多い発言ですが、あまりお説教をきいたことがない年配の人でもいいます。
地獄、極楽の話はお経にでていますが、死んでからいくところで、だれも帰ってこないから証明されないという考え方のようです。地下に地獄があるとも、西の方に極楽という星があるとも考えられない。したがってテンポの話であると理解しているわけです。そして地獄、極楽の話をする坊さんは、テンポをついて金儲けしているのであるということです。
歎異抄という本のなかに、親鸞聖人のこんなお言葉があります。「このような私でも念仏して救われると信じている。阿弥陀如来の本願がまことである限り、その本願を説かれたお釈迦さまの教えにうそがあるはずがない。それを伝えた善導大師(中国)や法然上人の教えに虚言(うそ)はない。だからこそそれを信じている親鸞の言葉も誤りではないと思うがどうか」ということで、お坊さんはそのお教えをお取りつぎするのがつとめです。御院さんがテンポをついているということは、お釈迦さまがテンポをついていたということになります。お釈迦さま以来いままで二干五百年の間、テンポが信じられてきたとしたら、不思議ではありませんか。
私どものご先祖が信じてきたということは、そこに真実があるからでしょう。その真実とはどういうことなのかを聞かなくしてはテンポであることになり、そのテンポをきいてきたご先祖はアホということになりませんか。親鷺上人は僧も在家の人もともに、高僧のお教えを信じてよろしいとお示しです。(道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説-正信偈)。