こころの法話集273
お話273
後生たすけたまえ
小浜市遠敷・西光寺前住職 吉田俊逸
少し私たちの考えていることで気になることを書きます。「後生の一大事とたすけたまえ」です。特によく聴聞されている方々の中にも後生とは死後の問題としていられる方があるように思います。
親鸞聖人の教えは現当二益の法です。後生の大事とは、阿弥陀如来が罪悪深重の私を救い下さるために法蔵菩薩になられて、本願力成就の「名号」を私のためになされたことに気がつかされた時、私は今み仏のご慈悲の中にあることを知らされたならば、今日からの後の人生が大切になってくるのです。私一人の人生ではないのです。
また「たすけたまえ」については、蓮如上人は文明五年(一四七三年)以後は「たのむ」と同じ意味で用ていられます。そしてこの言葉を文選読みの用法に従って「たすけたまえとたのむ」とされています。
そしてこの「たのむ」は無疑信順の和訓を意味する言葉として常に用いられています。無疑信順とは疑いなくおおせに順(したが)うことですから、そこには、たすけねばならない法が先手でないと、この文は成り立ちません。たすけたまう法がすでに私に与えられているから「たのむ」であり「おおせのまま」といわれるのです。
信心とは「如来の願力におおせのまま」であり「おまかせする」ということです。私の側からはすべてが阿弥陀仏のはからいですから一切の心配や、はからいは不必要なのです。
それでこそいついかなることがあっても、今が臨終であっても阿弥陀仏の救いは間違いないのです。
平成業成(地獄の種を極楽の種に変える)こそ真宗の救いの大切な今日的問題であります。それでこそ今が大切であり、今の一日を力いっぱいに努力して生きてゆくことに気づかされていくのです。現在を無視して死後の世界に力を入れる聴聞こそ、後生の一大事を自分勝手な解釈として、どうせ私は凡夫だものと反省のない生活になっているのです。